アグロエコロジーと食料システムのレジリエンス:気候変動時代における持続可能な食料生産戦略の多角的考察
はじめに:気候変動と食料システムの脆弱性
地球規模での気候変動は、干ばつ、洪水、異常気象の頻発化を通じて、世界の食料システムに深刻な影響を及ぼしています。特に、単一作物への依存、化学肥料や農薬への過度な投入を特徴とする現在の集約型農業モデルは、生態系の健全性を損ない、食料システムのレジリエンス(回復力、強靭性)を低下させる要因として指摘されています。このような状況において、生態学的原則に基づいた持続可能な食料生産アプローチであるアグロエコロジーが、気候変動への適応と緩和、ひいては食料安全保障の確保に向けた重要な戦略として国際的に注目を集めています。
本稿では、アグロエコロジーの包括的な概念を再定義し、それが食料システムのレジリエンス強化に貢献する具体的なメカニズムを、生態学的、社会経済的、そして政策的側面から多角的に分析することを目的とします。さらに、グローバルな実践事例と現在の政策動向を検証し、アグロエコロジーのさらなる普及と発展に向けた課題と研究の方向性について考察を深めます。
アグロエコロジーの包括的理解と多角的側面
アグロエコロジーは、単なる環境保全型農業技術の集合体にとどまらず、農業生態系とその周辺の社会経済システム、さらには文化的な要素を統合的に捉える包括的なアプローチです。国連食糧農業機関(FAO)は、アグロエコロジーを「食料システムの設計と管理に生態学的原則を適用すること」と定義し、その実践を促進するための10の要素を提唱しています(FAO, 2018a)。これらは、生物多様性の保護、土壌の健全性の維持、水の効率的な利用といった生態学的側面だけでなく、地域経済の活性化、農民のエンパワーメント、伝統的知識の活用、食料主権の尊重といった社会経済的および倫理的側面も包含しています。
生態学的側面
アグロエコロジーは、多様な作物の栽培(多作栽培、混作、間作)、家畜と作物の統合、アグロフォレストリーの実践を通じて、農業生態系内の生物多様性を高めます。これにより、病害虫の自然制御が促進され、外来性投入資材への依存度が低減されます。また、有機物の土壌への還元は土壌の物理的・化学的・生物学的特性を改善し、水保持能力の向上や炭素貯留能の強化に寄与します(Altieri & Nicholls, 2020)。これは、気候変動による干ばつや豪雨といった極端な気象イベントに対する農地のレジリエンスを高める上で極めて重要です。
社会経済的側面
アグロエコロジーの実践は、農民コミュニティの知識と経験を重視し、意思決定プロセスへの参加を促進することで、農民のエンパワーメントに貢献します。地域に根ざした食料システム(ローカルフードシステム)の構築は、生産者と消費者の距離を縮め、公正な取引を可能にし、地域経済の活性化を促します。さらに、多様な作物の栽培は、市場価格変動のリスクを分散し、小規模農家の経済的安定性を向上させる可能性を秘めています(IPES-Food, 2015)。
食料システムのレジリエンスへの貢献メカニズム
アグロエコロジーは、以下に示す複数のメカニズムを通じて食料システムのレジリエンスを強化します。
気候変動への適応
- 生態系サービスの強化: 土壌の健全性向上、生物多様性の維持、水循環の改善は、極端な気象現象に対する農業生態系の回復力を高めます。例えば、有機物含量の高い土壌は、干ばつ時には水をより長く保持し、豪雨時には浸水を軽減する効果があります。
- 作物多様性の確保: 遺伝的多様性を持つ複数の作物や品種を栽培することで、特定の気候ストレス(例:特定の病原体、極端な温度)に対する脆弱性が低減されます。これは、気候変動による予測不能な環境変化に対して、より多様な選択肢を持つことを意味します。
- リスク分散: 地域に即した多様な生産システムは、単一市場への依存を軽減し、サプライチェーンのショックに対する脆弱性を低減します。
気候変動の緩和
- 炭素隔離: アグロエコロジーの実践(例:カバークロップ、堆肥施用、アグロフォレストリー)は、大気中の二酸化炭素を土壌やバイオマス中に固定する炭素隔離能力を高めます。土壌有機炭素の増加は、温室効果ガス排出量の削減に直接的に貢献します。
- 温室効果ガス排出量の削減: 化学肥料や農薬の使用を低減することで、それらの製造・輸送に伴うエネルギー消費と、窒素肥料に起因する亜酸化窒素(N₂O)の排出を抑制します(IPCC, 2019)。
グローバルな実践事例と政策動向
アグロエコロジーへの関心は国際的に高まっており、具体的な実践や政策支援の動きが見られます。
実践事例
- アフリカ地域: FAOや地域のNGOは、特にサヘル地域において、干ばつに強い伝統作物の再導入、アグロフォレストリー技術(例:フェルローウィング)の普及を通じて、小規模農家の食料安全保障と生計向上を支援しています。これにより、土壌浸食の抑制、土壌肥沃度の回復、生物多様性の向上が報告されています(FAO, 2018b)。
- ラテンアメリカ: キューバでは、ソ連崩壊後の経済危機を契機に、化学資材に依存しない都市型アグロエコロジーが国家戦略として推進され、食料自給率の向上と生態系サービスの強化に成功しています(Koohafkan et al., 2017)。
- 欧州: フランスやドイツなどの欧州連合(EU)加盟国では、共通農業政策(CAP)の改革や「Farm to Fork戦略」の中で、アグロエコロジーへの移行を支援する政策パッケージが導入されています。これには、有機農業への転換支援、生態系サービス支払いの導入などが含まれます。
政策動向と国際機関の役割
FAOは、アグロエコロジーへの移行を促進するため、「アグロエコロジーのための国際シンポジウム」を定期的に開催し、知識共有と政策対話のプラットフォームを提供しています。また、IPES-Food(持続可能な食料システムに関する国際専門家パネル)は、アグロエコロジーが食料システムの変革を促す上で不可欠な要素であると指摘し、これまでの主流な食料システムパラダイムからの脱却を提言しています(IPES-Food, 2015)。各国政府も、気候変動対策や持続可能な開発目標(SDGs)達成に向けた食料政策において、アグロエコロジーの原則を組み込む動きを加速させています。
課題と今後の展望
アグロエコロジーは、食料システムのレジリエンス強化に多大な可能性を秘めている一方で、その普及と拡大には依然としていくつかの課題が存在します。
- 生産性とのトレードオフ: 一部の研究では、アグロエコロジーへの移行初期段階において、従来の集約型農業と比較して収量が一時的に減少する可能性が指摘されています。しかし、長期的な視点で見ると、生態系サービスの向上や外部投入資材コストの削減により、経済的・生態的持続可能性が高まることが示唆されています(Muller et al., 2017)。
- 知識と技術の普及: アグロエコロジーの実践には、地域固有の生態学的知識と農家のスキルが不可欠です。しかし、これらの知識の体系化、教育、普及メカニズムは未だ不十分な地域が多く、技術移転の課題が残されています。
- 市場と政策の支援: アグロエコロジーに基づく農産物に対する市場の理解と需要の拡大、そして農家がアグロエコロジーへ移行するための財政的・政策的インセンティブが不足している点が課題です。既存の補助金制度が大規模・集約型農業を優遇している状況を是正し、アグロエコロジーへの移行を支援する政策的枠組みの構築が求められます。
- エビデンスベースの政策策定: アグロエコロジーの多様な効果を定量的に評価し、その成果を示すエビデンスを蓄積することが重要です。長期的なモニタリングと評価フレームワークの開発、そして異なる地域や文脈におけるケーススタディの深化が、今後の学術研究の重要な方向性となります。
結論
アグロエコロジーは、気候変動がもたらす複雑な課題に対し、食料システムのレジリエンスを強化するための多角的かつ統合的な解決策を提供します。生態学的健全性の回復、社会経済的公平性の促進、そして伝統的知識の尊重を通じて、持続可能な食料生産へと移行するための強力な枠組みを提示しています。
今後の研究においては、アグロエコロジーの実践が多様な社会経済的、生態学的文脈においてどのように機能し、どのような効果をもたらすのかを、より詳細なデータと厳密な方法論を用いて分析することが不可欠です。また、政策立案者、研究者、農民、消費者といった多様なアクター間の連携を強化し、アグロエコロジーへの移行を加速するための革新的な政策ツールと市場メカニズムを開発することが喫緊の課題であると考えられます。アグロエコロジーは、単なる農業技術の選択肢にとどまらず、地球規模の環境課題と食料安全保障の課題を同時に解決するための、持続可能な未来への道筋を示すものとして、その重要性は今後ますます高まるでしょう。
参考文献
- Altieri, M. A., & Nicholls, C. I. (2020). Agroecology and the Search for a Truly Sustainable Agriculture. CRC Press.
- FAO. (2018a). The 10 Elements of Agroecology: Guiding the Transition to Sustainable Food and Agricultural Systems. Food and Agriculture Organization of the United Nations. http://www.fao.org/3/i9037en/i9037en.pdf
- FAO. (2018b). Scaling up agroecology to achieve the Sustainable Development Goals. Food and Agriculture Organization of the United Nations. http://www.fao.org/3/I9021EN/i9021en.pdf
- IPCC. (2019). Climate Change and Land: An IPCC Special Report on climate change, desertification, land degradation, sustainable land management, food security, and greenhouse gas fluxes in terrestrial ecosystems. Intergovernmental Panel on Climate Change.
- IPES-Food. (2015). The New Science of Sustainable Food Systems: Overcoming barriers to food system transformation. International Panel of Experts on Sustainable Food Systems. http://www.ipes-food.org/images/Reports/IPES-Food_full_report_ENG.pdf
- Koohafkan, P., Altieri, M. A., & Giménez, E. H. (2017). Agroecology: The Science and Politics of Sustainable Food Systems. Routledge.
- Muller, A., Schader, C., Scialabba, N. E. H., Brüggemann, D., Isensee, A., Erb, K. H., ... & Niggli, U. (2017). Strategies for feeding the world more sustainably with organic agriculture. Nature Communications, 8(1), 1290.